北の社寺めぐり

北海道各地に残り独自の建築技法や歴史を持った
宮大工おすすめの社寺建築を巡り、ご紹介します。

帯広市 永祥寺 対談 第4部 

第4部 ミュージシャンから住職へ

 

 

菅原

ありがとうございます。

話は少し変わり、織田さんにお聞きしたいことがあるのですが。

織田さんはお寺で生まれて、それから家業とは異なる仕事を経験をしてきましたよね。

そして、お寺を継ぐために修行し帯広に戻ってきた。

そこには、どんな心の変化があったんでしょうか?

 

 

織田

私は寺の息子として生まれて、小さい頃からあなたは住職になるために生まれてきたんだと言われ続けてきたんです。

そうするとですね、少年時代に反発してしまったんですよね。

そんな敷かれたレールの上なんか歩きたくないと。

それで中学生ぐらいの時に、サラリーマンになりたいと思うようになりました。

また、それとは別にミュージシャンになりたいとも思っていました。

それは夢のまた夢と思っていたのです。

それから大学を卒業し普通に就職をし、

ご縁があって仕事を辞めてバンドマンになるのですが、

音楽のプロの道が開いたところで転機がありまして。

それまでは反発して、お寺のことはやりたくないと思っていたわけなんです。

そもそもお寺はお葬式ばかりであんまり格好が良くない。

イメージも明るくない。みんなの前でお説教をしないといけない。

そんな毎回、毎回話す事なんて大変だし、自分にできるわけがない。

その他にもいろいろあって、僧侶にはいいイメージがなかったんですよね。

転機になったのは、父の病気でした。

私が17歳の時に病を患っていることが分かり、持って10年と病院から言われました。

父が47歳の時ですね。最後は57歳で亡くなるんですが、

いよいよ危ない、もう後数年しか持たないよという時、

私は当時バンドマンをやっておりました。

けれど家庭の状況に目を向けてみると、

家族の中で元気に生活をしているのは私しかいない、という状況だったんです。

私しか継げる人はいない。

覚悟を決めて受け入れるという気持ちが、次第に生まれてきたんですね。

なれるわけないだろうと思っていたバンドマンに自分はなることができた。

その活動をしている時に自分はもう一生分楽しんだんじゃないだろうか、という気持ちになりました。

その時が23、24の歳だったんですが、

もうバンドマンとしての未来のことに満足している自分がいまして。

もう頭を剃って僧侶の道に入ってもいいなと。

 

菅原

すごいですね。

 

織田

バンドマンとしての時間をいただけたことは、

その後自分が僧侶になったことにプラスだったと思います。

娑婆の世界に未練がなくて、もうやりたいことをやらせていただいた。

そのような満足した気持ちで修行の道に入ったわけです。

すると今度は修行中に坐禅というものに出会い、

そこでまた自分は一つ変わりました。

 

 

(第5部に続きます)

詳細

所在地 帯広市
名称 永祥寺 対談 第4部 
創建